2021.06.10更新
中国の影絵芝居は「皮影戲(ピーインシー)」と呼ばれ、宗教要素が強いインドネシアのワヤン・クリと異なり、大衆娯楽としての要素が大きい。
中国で影絵を指す言葉としては他にも「手影(手影絵)」、「剪影(紙を切ったシルエットアート)」などの言葉があり、「皮影戲」は基本的に人形を使った影絵劇を指す。日本語で言うところの「影絵」はあまり一般的ではないが、漢字から意味は通じる。
「皮影戲」は動物の皮で作られた影絵人形や道具を用いたことから「皮の影絵の芝居」という意味である「皮影戲」という名が影絵劇全般を指す言葉として定着した。
皮影戲の歴史は非常に古く、記録から西漢に始まって唐代に広まり、清代に盛んに演じられたことがわかっている。また、13世紀頃の元代にはモンゴル帝国の世界的拡大と共に、イラン、アラブ、トルコ、タイ、ミャンマー、マレー諸島などのほか、ドイツやイギリスなどのヨーロッパ、ロシアなど広域にわたって伝わり、各地の伝統芸術にも影響を与えたと考えられる。
影絵芝居が始まったきっかけには下記のような説があるが、いずれも伝説の域を出ない。
皮影戲は今でこそテレビやインターネットに取って代わられたが、かつては中国における代表的大衆娯楽だった。また、中国は広大であるため、地域ごとに方言や地域の文化を取り入れた様々な影絵芝居が演じられるなど、地域性・多様性も皮影戲の特徴の一つといえるだろう。
西漢から始まったといわれる皮影戲だが、明代武宗の頃には東城、西城の2派を形成するなど、大衆娯楽としての地位を固めていた様子がうかがわれる。
その後、清代には多くの官僚や豪族が影絵芝居の設備を備えてプライベートの影絵芝居を上映したり、影絵人形師に人形を彫ってもらったりすることを誇りとし、皮影戲の地位は最盛期に達した。康熙帝の頃には、王府には多くの影絵芝居専門の役人がいるなど、皮影戲は宮廷でも大きな地位を得ている。
中国の影絵芝居は大衆娯楽としての要素が強いため、大衆の間でも盛んに公演が行われた。田舎では様々な影絵上映会があり、旧正月や祝日だけでなく、結婚式、宴会などのお祝いの場でも影絵芝居は欠かせないものとなった。
ときには徹夜で上演を行い、十日程度上演することもあったと言われる。お祝いの席で徹夜上演される影絵芝居は当時の人々にとって大きな楽しみであっただろう。
清代後期になると、地方政府の一部は影絵芝居によって夜に多くの人が集まって、反政府運動などの事件が発生することを恐れて、影絵芝居の上映を禁止し、影絵芝居公演者の逮捕なども行った。
さらに清代末になると、白蓮教の乱に巻き込まれて拘束されたたり、戦乱によって民衆は生きることに精一杯となり、皮影戲は大きく衰退した。
第二次世界大戦以降は、全国各地で残った影絵劇団や演者が再び活躍し始め、1955年から各地域で影絵劇団を組織され、公演や文化芸術交流が行われるようになったが、文化大革命によって再び下火になっていく。チャン・イーモウ監督の『活きる』で、文化大革命当時の影絵師の姿が描かれているが、観てみるのも面白いだろう。
元来、複雑で難易度の高い制作工程、色褪せや場所などによる保存問題などいくつかの課題があった皮影戲だが、文化大革命後はテレビやインターネットの発展など時代の変化に伴い、大衆娯楽としての地位を失っていくことになる。
大衆娯楽としては衰退した皮影戲だが、中国では多くの戯曲や劇が皮影戲から派生しており、培われた演劇や芸術としての知見は映画の発明や発展にも先導的な役割を果たした。
こうした元祖大衆娯楽ともいえる皮影戲を中国の伝統芸術として残す活動は国家単位で活発的に行われており、2007年には湖北省雲夢皮影芸術団と山東省泰安市範正安皮影工作室が、中国の第1回文化遺産賞を受賞したり、2018年には上海演劇学院が影絵芝居中華優秀伝統文化伝承基地として指定されたりなどしている。
また、2006年には中国の第一次国家非物質文化遺産リストに登録され、2011年にはユネスコ無形文化遺産に登録されているなど、中国の大衆娯楽であった皮影戲は世界の伝統芸術として発展を遂げている。
李丹丹. 传统的皮影. 北方妇女儿童出版社, 2017
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中国皮影戏入选人类非物质文化遗产代表作名录,搜狐网.2016-01-22
皮影戏,西安文明网.2014-07-09
皮影戏的分类,中国戏剧网. 2014-07-07