日本の影絵-手影絵と写し絵

十返舎一九画『和蘭影絵 於都里伎』

日本の伝統影絵

日本の伝統影絵は、主に手を使った「手影絵」や幻灯機を使った「写し絵」や「回り灯籠」などが知られており、それ以外に錦影絵などもある。

手影絵は、手や指を使って動物や人物などの影を表現する遊びであり、灯火によって壁や障子、襖などに形を映し、江戸時代頃から庶民によって楽しまれていた。

「写し絵」は、幻灯機を使い、映し出した動く絵と共に語りと音楽を楽しむもので、日本のアニメーションの源流とも言われている。幻灯機は、オランダから伝わったものを日本人独自の発想で展開し、木製にして軽く手に持って操作できるようにした。

また、夏の風物詩である「回り燈籠」は、幻灯機を用いて円筒の切り抜かれた形が外枠に影絵となって映って回転し、子供たちに大変人気があった。

映し出されるキャラクターは動きを分解した絵を連続して映し出すことで、現代のアニメーションを見るような動きのある映像が楽しめ、文楽などの人形芝居の要素や説経節、落語などの「語り」と楽曲が結びつき、オーディオビジュアルなエンターテイメントとなり、当時の人々を楽しませた。

伝統影絵の衰退

大正時代以降、映画の普及によって写し絵は衰退していった。震災や戦災によって多くの資料が失われたことも写し絵の存続に悪影響を与えた。寄席以外での演出や、大道芸や祭りの余興なども見つけることができず、次第に人々の記憶から消えていった。

明治時代になると、日本には新しい技術や文化が導入され、写し絵もその影響を受けることとなった。幻灯機が改良され、石油ランプや電球が使用されるようになり、より明るく美しい映像が映し出されるようになったのである。
また、映像に音楽や語りが加わるようになり、より豊かなエンターテイメントとして楽しまれるようになった。

平成5年、劇団みんわ座によって「江戸写し絵」が復活し、現代に伝統を受け継ぐ活動が行われるようになった。江戸時代に生まれた影絵や写し絵は、現代のメディアアートの源流としても注目されている。

ロッテ・ライニガー|ドイツ人影絵アニメ作家

LotteReiniger

引用:Lotte Reiniger/Primrose Productions

ロッテ・ライニガー

ロッテ・ライニガー(Lotte Reiniger / 1899)は、ドイツの映画監督で影絵アニメーション作家。
最も有名な作品は世界最古の長編アニメ映画の一つといわれる「アクメッド王子の冒険(1935)」だが、他にも「パパゲーノ(1935)」「ドリトル先生アフリカ行き(1928)」「白雪姫とローズレッド(1954)」など、40本以上の影絵アニメを制作している。
影絵アニメにおける世界的第一人者としてだけでなく、独特な表現手法やマルチプレーンカメラの開発など、アニメ映画黎明期の多くのアニメ作家、映画作家に影響を与えた。

映画とアニメ、影絵に魅せられた若かりし頃のライニガー

ロッテ・ライニガーは、 1899年にベルリンで生まれ、子供の頃に中国の影絵(皮影戲)と切り絵に触発されたことにより、ドイツのシルエット芸術であるシェレンシュニット(Scherenschnitte)を学び、家族や友人のために人形劇をおこなったといわれる。
10代になると彼女は映画へ情熱を注ぎ、ドイツの先駆的な映画監督として知られるポールウェゲナーの下で働いた。この時にウェゲナーの映画でタイトルカードをシルエットで作り、後々の影絵の才能を見せている。

数年後、ライニガーは自身でも映画製作を始め、さらに自分の映画をアニメ化した。その後、彼女はアニメ製作の世界に浸かり、実験アニメと短編映画のスタジオであるグラウビュンデン文化研究所に入り、そこで創作パートナーにもなる夫や前衛的な友人たちに出会う。

この頃に彼女が最初に監督した短編アニメ映画は好評を博し、国際的にも彼女の名が知れ渡り、多くの短編映画や広告を作るきっかけとなり、数年にわたってグリム兄弟のシンデレラなど6つの短編映画を製作した。


引用:N.N./Agentur Primrose Film Productions

長編影絵アニメへの挑戦

1923年、ライニガーは資本家のルイス・ハーゲンから依頼を受け、千夜一夜物語をベースにした長編影絵アニメ映画の「アクメッド王子の冒険」を製作することになる。成功した最も古い長編アニメの一つといわれるディズニーの「白雪姫と七人の小人」ですら、それより10年以上後のことであり、当時としては非常にチャレンジングであった。1926年に「アクメッド王子の冒険」は完成するが、この作品は彼女の名をさらに高め、続けて「ドリトル先生アフリカ行き(1928)」を3部構成で製作した。「アクメッド王子の冒険」は1936年にヴェネツィア映画祭の当時の最高賞であるムッソリーニ賞を受賞している。

戦時中の創作活動

やがて、ナチス・ドイツの台頭に伴い、左翼運動にも加わっていたライニガー夫妻は海外へ拠点を移し、1933年から1944年にかけて各国を移動した。
この期間にパリの映画監督ジャン・ルノワール、ローマではルキノ・ヴィスコンティらとと共に12本の映画を製作しており、「カルメン(1933)」「パパゲーノ(1935)」などが有名な作品として知られている。

第二次世界大戦が始まると、彼女はヒトラーの支配下でドイツのためのプロパガンダ映画を作ることを余儀なくされたが、終戦後はロンドンに移り、短い広告映画をいくつか制作し、1953年にはルイス・ハーゲン・ジュニアと共にプリムローズプロダクションを設立し、グリム童話をベースにした短いアニメ映画を12本以上制作した。

世界的評価

1963年に夫が亡くなると、彼女はドイツに戻ってさらに3本の映画を制作し、最後の映画である「The Four Seasons」を完成させた1年後に82歳で亡くなった。
彼女のアニメ界や映画界における世界的功績は大きく、1936年のヴェネツィア映画祭・ムッソリーニ賞以外に1972年にドイツ映画賞の金のフィルムバント賞、ドイツ連邦共和国功労勲章などが与えられている。

引用:Lotte Reiniger/Primrose Productions

参考文献

Reiniger Lotte. “Scissors Make Films”. International Film Magazine: Sight and Sound. 2022-5-20
Sterritt, David . “The Animated Adventures of Lotte Reiniger”. Quarterly Review of Film and Video. . 2022-5-20

ヨーロッパの影絵

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引用:ル・シャ・ノワールで上演された「スフィンクス」/ アメデ・ヴィニョーラ

ヨーロッパの影絵の起源

ヨーロッパの影絵は17世紀の終わりに、アジアからペルシャ、アラビア、トルコを経由してヨーロッパに伝わり、イタリアからイタリア人の影絵興行師を通じてフランス、ドイツに広がっていったと考えられている。

ヨーロッパにおける影絵の歴史はアジアと比較すると若く、1694年に南イタリアで行われた「Play in Darkness」という影絵芝居の記録が古いものとして知られている。起源については、13世紀のモンゴル帝国の拡大に伴って中国の皮影戲が伝わったという説もあるが、可能性は残されているものの明確な根拠はない。

アジアの影絵芝居との違い

ヨーロッパの影絵における特徴は、装飾性を重要視せず、材料も紙やダンボール、木、金属など、不透明なで手に入りやすいものが利用された。また、基本的にシルエットや人形の動き、ストーリーが重要視されたため、糸や針金を使った巧妙な仕組みが考案された。

こうした特徴は、動物の皮で作られて精巧な装飾が施されることが多いアジアの影絵と比較すると大きく異なっており、後々ヨーロッパの影絵がアニメの発展にも関係している。

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引用:Zinc silhouette for the Chat Noir cabaret shadow play L’Épopée (The Epic) / Caran d’Ache

フランスの影絵

フランスはドイツと並んでヨーロッパで影絵が最も発展した国の一つであり、18世紀頃に中国から伝わった影絵が起源といわれる。今でもフランスでは影絵は「Ombres Chinoises(中国の影)」と呼ばれており、皮影戲の影響の大きさを窺い知ることができる。

フランス影絵史における古い大きなイベントは、1771年に行われたフランソワ・ドミニク・セラフィンによるヴェルサイユ宮殿での影絵劇の上演である。セラフィンの影絵劇は王室に気に入られ、その後もパレ・ロワイヤルの常設劇場で影絵劇の上演を続けることになる。その活動は彼の甥などの後継者によって1870年まで続けられた。

19世紀になると、影絵はナイトクラブがたくさんあるパリ18区のモンマルトルでも人気を博した。カフェのオーナーの息子であったロドルフ・サリスは芸術家や文人が集まる文芸キャバレーをつくりたいと考え、1881年に「ル・シャ・ノワール(黒猫)」をオープンした。

1886年、ル・シャ・ノワールの二階に画家のアンリ・リヴィエール が影絵劇場を創設すると、多くの前衛的な文芸人が影絵の制作に参加した。1897年までの10年間の間に、『スフィンクス』、『聖アントワーヌの誘惑』、『星への歩み』、『叙事詩』など40本以上の影絵劇が上演されている。上演された影絵劇は動きや色彩、音声などの点において、映画の特徴を多く備えており、後に現れる映画の発展にも寄与したといわれる。

フランスは現在でも影絵劇の講演を行う劇団が複数あるほか、世界的に有名なミッシェル・オスロ監督が「プリンス&プリンセス 」「夜のとばりの物語」などの影絵アニメを劇場公開するなど、世界でも有数の影絵国家となっている。

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引用:ル・シャ・ノワールで影絵劇の上演に熱中する文芸人達 / Henri Rivière

ドイツの影絵

ドイツで影絵劇が流行ったのは、18世紀後半から19世紀初頭にかけてといわれ、感受性や主観に重きをおいたドイツ・ロマン主義と共に多くの人々に愛され、上流階級の家庭では、影絵劇を作って上演することも流行していた。
皮影戲を絶賛したゲーテのほか、ブレンターノ、アルニム、メーリケなど多くの文芸人が影絵劇のために戯曲を書き、時には自ら制作もした。

その後、2度の世界大戦や1900年頃に発明されたフィルムと急速に普及した映画に押されて影絵劇はかなり衰退したが、19世紀後半から20世紀にかけては、『アクメッド王子の冒険』、『パパゲーノ』などで世界的に有名なロッテ・ライニガー(1899-1981)、『ファウスト』『ドイツ人形劇研究所』などの実験的影絵劇を制作したオットークレイマー教授(1900-1986)などが現れ、影絵劇から影絵アニメへと現代影絵の進化過程を担った。

関連リンク:ロッテ・ライニガー|ドイツ人影絵アニメ作家


引用:Lotte Reiniger, “Die Abenteuer des Prinzen Achmed” / Primrose Productions

参考文献

schattentheater.de “The Development of the Shadow Theatre”. schattentheater.de . 2022-5-10
Bradshaw, Richard (1972). “Richard Bradshaw And His Shadow Puppets Teachers’ Notes”. 2022-5-10
岡本夢子,Le Chat Noirにおけるフュミストリーと19世紀末文学の関わり」,京都大学フランス語学フランス文学研究会、2013

ハリ&ディープティ|インド人シャドーアーティスト

ハリ&ディープティ

経歴

ハリ&ディープティ(HARI & DEEPTI)はインドのムンバイ出身の影絵作家で、ハリクリシュナン・パニッカーとディープティ・ネアの夫婦によるアーティスト・コンビ。
プロ影絵作家としての活動以前は、ハリはMTV Network sIndia、ディープティは大手通信会社のデザイナーだったが、現在は退職し、コロラドを拠点として創作活動に専念している。

創作スタイル

元々、インドネシアのワヤン・クリに影響を受けて影絵をはじめたが、ワヤン・クリや一般的な影絵が黒い紙を切り、スクリーンの裏にそれらを配置して創作表現を行うスタイルとは大きく異なっている。

ハリ&ディープティの創作スタイルは、厚手の白い水彩紙を切って重ねてシャドウボックスを作成し、後ろから当てた反射光で作品を魅せる。スクリーンは用いず、照明を当てた状態では影絵のように楽しみ、非照明の状態での紙彫刻のように楽しむ。

多くの単品作品の他、小さな村の冒険家の物語を描いた絵本「シーカーズ」などがある。

ハリ&ディープティ

参考

Black Book Gallery. Hari & Deepti . blackbookgallery.com, 2022-4-20
boredpanda.com. Artists Hari & Deepti’s Otherwordly Experience in Costa Rica . boredpanda.com, 2022-4-20

インドネシアの影絵

ワヤン・クリ

ワヤン・クリ(影絵芝居・影絵人形)

インドネシアにおける影絵芝居、または影絵芝居で使う人形はワヤン・クリと呼ばれ、インドネシア諸島のジャワ島やバリ島で観ることができる。麻布のスクリーンの後ろにランプや電気で光を当てて、操り人形の影を映し出す。

ワヤン・クリにおける人形の人形遣いはダランと呼ばれ、影が生きているように巧みに人形を操作する。ワヤン・クリの物語の多くは、善悪対決を軸としており、ヒンズー教の叙事詩「ラーマーヤナ」、「マハーバーラタ」のエピソードが多い。

ワヤン・クリの「ワヤン」はジャワ語で”影”または”想像力”のことだが、近年では、ジャワ語とインドネシア語の共通の用語として「ワヤン」を”操り人形”または”影絵芝居”という意味でも使う。また、「クリ」は、”皮”や”皮膚”を意味する。

現在、ワヤン・クリはユネスコの無形文化遺産に登録されており、今でもジャワ島、バリ島、ロンボク島など、今でもインドネシア各地の儀式やイベント、観光名所などで観る事ができる。

ワヤンの歴史

ワヤンに関する起源は明確にはなっておらず、ジャワ先住民説、インド説、中国説などがあり、ジャワ先住民説やインド説が有力とされる。記録としては、10世紀頃には歴史に登場し、ヒンドゥー教の寺院の祭りなどで上演されるなど、ヒンドゥー教と密接な関係がある。

ヒンドゥー教はイスラム教やキリスト教よりも早く、インドからインドネシアに伝わった宗教だが、インドネシアにイスラム教が広がり始めると、神を人形として表現することや展示が禁じられた。ヒンドゥー教の指導者はこうしたイスラム教からの禁止を回避しようと考え、人形そのものを見せるのではなく、影だけを映すことに転じて現在の形に至ったとも言われる。

ワヤン(操り人形)

ワヤン・クリにおける人形は「ワヤン」と呼ばれる。ワヤンのサイズは、25㎝~75㎝程度で、多くは水牛やヤギの皮で作られている。最高級のワヤンは10年間保存した若いメスの水牛の皮である。

ワヤンは、裁縫、加熱処理、形成、研磨などを経て作成されたパーツを利用して作られるが、非常に手間がかかる作業であるため、大きな操り人形の作成には、数ヶ月を要することもある。

本体が仕上がった人形には、手を操るための2本の棒と全体を操るための1本の太い棒が付けられる。太い棒は下がとがっているが、これはスクリーンの前で突き刺して人形を出演したままにするためである。

ワヤンは基本的に人形本体も美しく彩色されているが、影に色をつけないため、上演中に人形の色を観ることはできない。これはスクリーンの裏側は死後の世界であるため、色のついた死後における美しい世界は、現世では観ることができないという意味を持つといわれる。

地域ごとの特徴

インドネシア全域で見られるワヤン・クリだが、ジャワ島、バリ島、ロンボク島など、地域によってそれぞれ特徴がある。

イスラム教徒が多いジャワ島では、劇は一晩を通して行われるのが基本であり、ライトは大抵電気を使う。人形は細長く、演奏では基本的にガムランを使い、歌を歌う女性歌手がいる。

ヒンドゥー教が多いバリ島では、上演時間は2、3時間程度で、夜に行われる場合はココナッツオイルのランプが使用される。人形は写実的であり、音楽は基本的に4つのガムランジェンダーワヤンを使う。女性歌手はおらず、人形遣いが歌を歌うが、人形遣いは聖職者であることが多い。

ロンボク島はイスラム教が優勢ではあるが、バリ島の影響を色濃く受けている島であるが、人形はジャワ島のものに非常に似ている。音楽は小規模の管弦楽団形式でフルート、鉄琴、ドラムが使われるが、女性歌手はおらず、演目は島特有のイスラムの教えを元にしたものが多い。

ワヤン・クリの上演

ワヤン・クリの上演では、人形遣いがスクリーンの裏で影絵人形を操り、明かりを使って影をスクリーンの面に映し出す。スクリーンの下にはバナナの幹を置き、人形遣いは操り人形の入っていた箱の右に座り、箱をドラム代わりに木槌でたたく。

音楽を演奏する楽団は、人形遣いの後ろに座るが、特にジャワ島のワヤン・クリではガムラン管弦楽団が不可欠である。

バナナの幹とスクリーンは、地球と空の象徴で全体の構成は、宇宙全体を象徴している。ランプは太陽尾よび人形遣いの目の象徴とされ、人形遣いが操り人形を操るとき、神の力が宿っていると解釈されている。

このように、インドネシアにおける影絵芝居「ワヤン・クリ」は宗教色の濃いものであるが、ワヤンのデザインは中国や他の近隣諸国の影絵とは一味違った洗練された様式美を持っており、その美しさに魅了されて本物のワヤンを見ようと、インドネシアを訪問する人々は後を絶たない。

参考文献

 UNESCO. “Wayang puppet theatre”. UNESCO, 2022-3-20  
Korsovitis, Constantine. “Ways of the Wayang”. India International Centre Quarterly,2001

オーギュスト・エドゥアール|フランス人シルエットアート画家

オーギュスト・エドゥアール

引用:Auguste Edouart | The Magic Lantern | The Metropolitan Museum of Art

オーギュスト・エドゥアールの生涯

オーギュスト・エドゥアール(Auguste Edouart)は、1789年生まれのフランス人シルエット肖像画家。

25歳にロンドンへ渡り、19世紀のイギリス、スコットランド、アメリカ、フランスで活躍した。ハサミを使って黒い紙を切り抜き、横顔の全身像のシルエット肖像を創るのを基本的な創作スタイルとし、5分以内に切り抜くことをルールとした。

エドゥアールは、36歳の時にシルエットを専門とする肖像画家として働き始めたが、3年間滞在したスコットランドでは約5,000のシルエット肖像画を作成すなど精力的に創作活動をおこなった。
また、その後はアメリカに10年間滞在し、多くの有名なアメリカ人のシルエットを創作している。

彼は創作の時はいつも二重にした紙からシルエットを切り取り、1枚をコピーとして自分のために残しており、アメリカを去る時にその数は5万以上にもなったといわれる。しかし、イギリスに戻る途中の船が難破し、命は助かったものの彼のコピーコレクションのほとんどは失われた。

ショックを受けたエドゥアールはフランスに戻り、その後はシルエットアート作家作家としての活動を行わずに72歳で生涯を閉じた。

オーギュスト・エドゥアールの作品

エドゥアールの作品は、スコットランド国立美術館やボストン美術館、有名な英国人の肖像画をコレクションするロンドンのアートギャラリー”ナショナル・ポートレート’ギャラリーなど多くの世界的有名美術館、ギャラリーに収容されている。

また、2015年には、エドゥアールの作品を含むシルエットアート展「The Art of the Silhouette in 19th-century Cork(クロフォードアートギャラリー・アイルランド)」が、2019年には「Black Out: Silhouettes Then and Now(ナショナルポートレートギャラリー・ワシントンDC、バーミンガム美術館・イングランド、)」が開催されている。

エドゥアールの作品は、スコットランド国立美術館やボストン美術館、有名な英国人の肖像画をコレクションするロンドンのアートギャラリー”ナショナル・ポートレート’ギャラリーなど多くの世界的有名美術館、ギャラリーに収容されている。

また、2015年には、エドゥアールの作品を含むシルエットアート展「The Art of the Silhouette in 19th-century Cork(クロフォードアートギャラリー・アイルランド)」が、2019年には「Black Out: Silhouettes Then and Now(ナショナルポートレートギャラリー・ワシントンDC、バーミンガム美術館・イングランド、)」が開催されている

オーギュスト・エドゥアール

引用:Auguste Edouart | Maria Gracia London | The Metropolitan Museum of Art

参考文献

metmuseum.org. Auguste Edouart | The Magic Lantern. metmuseum.org , 2022-3-20
nationalgalleries.org. Augustin Edouart. nationalgalleries.org , 2022-3-20

トルコの影絵

カラギョズ

トルコの伝統影絵芝人形劇「カラギョズ」

トルコの影絵はカラギョズ(Karagoz)という。「カラギョズ」はトルコ語で「黒い目」という意味であり,劇の主人公の名前でもある。カラギョズは14世紀後半以降、オスマン帝国全体に広まったといわれる。
起源については、モンゴル帝国の拡大と共に中国の影絵が伝わったという説や他のアジア地域から伝わったという説など諸説あり定かではないが、17世紀にはほぼ現在の形になっている。

カラギョズは、結婚式や祭りの時など祝時の夜に上演されることが多く、他のアジアの影絵劇同様、スクリーンの後ろで操る人形の影を光源によって映し出し、音楽、吟詠、歌と共に上演される。伝統的な舞台は模様がプリントされたカーテンとスクリーンで覆われた3面のブースで構成されるのが一般的ある。

カラギョズの人形と上演

カラギョズの影絵人形は35〜40センチほどの大きさで、ラクダ、ロバ、馬、水牛、子牛の皮などを加工して透明にし、植物性顔料によって彩色する。人形は複数の関節を持っており、踊り、ジェスチャーを行うことができる。人間の人形だけではなく、動物や鳥、家や船、木などの背景の他、ドラゴンなどもある。

人形の形態や制作手法は中国の影絵、皮影戲に似ているが、皮にラクダの皮が用いられる点やトルコらしい民族衣装デザインが影絵芝居の地域性を表していて興味深い。

カラギョズの上演は、人形遣いがランプに火をつけたときに始まる。伝統的な公演では、人形遣い以外に歌手や数人のオーケストラがいる。公演ではジョークを交えた軽妙な会話を行い、時には叫んだり騒音を出したりしながら、お馴染みのストーリーが進められるが、状況に応じてストーリーを即興で変えたり、即興の会話なども行う。

カラギョズのストーリー

カラギョズは典型的なトルコ人をデフォルメした「カラギョズ」と「ハジバト」の二人を主人公として進められる。

カラギョズは無法な町人であり、貧しく教育を受けていないが、狡猾さと機知によって不遇な状況から抜け出そうとする。一方のハジバトは教育を受けた知識層であり、知ったかぶりとして描かれている。この二人がちぐはぐな会話をしながら、当時の社会的および政治的問題について軽妙に風刺するような内容になっている。

また、二人以外にもさまざまな階級や登場人物を表すキャラクターが登場する。「アルバニアの獣」「ベリゲカス」など理由もなくカラギョズを打ち負かす「剣の人々」は支配層を表し、聖職者、イスラム教徒やキリスト教徒、外交官などを表す「ペンの人々」として「フレネミー」が登場する。カラギョズ自身は街の職人を表す「鎌と槌の人々」である。

娯楽の少なかった時代、カラギョズは多くの民衆に支持され、劇場や喫茶店、裕福な家などの他、スルタン(イスラム界の君主)の前でも上演され、オスマン帝国の拡大と共にギリシャ、エジプト、北アフリカなどにも広がっていった。

参考文献

karagoz.net. Traditional Turkish Shadow Theatre Karagoz. karagoz.net, 2022-3-10

台湾の影絵

高雄市皮影戲館

台湾の影絵芝居(皮猿戲・皮戲)

中華圏における影絵芝居は一般的に皮影戲と呼ばれるが、台湾における影絵芝居は皮猿戲または皮戲とも呼ばれ、清代にはすでに台南、高雄、屏東などで盛んに行われており、台湾南部一帯には100以上の劇団が存在したといわれる。

台湾影絵芝居の起源は中国の皮影戲にまで遡る。中国皮影戲には北影と南影があり、さらに地域によって秦晋系、滦州系、山東系、杭州系、川鄂滇系、湘贛系、潮州系などの系統がある。一般的に、台湾皮影戲は潮州皮影系に属するといわれる。

台湾影絵芝居の起源

皮影戲は中国の漢代から始まり、北宋に興り、発展の過程で、地方演劇などを吸収しながら、様々な流派を形成した。皮影戲で有名なのは河北、北西、福建・広東などである。

台湾影絵芝居の成り立ちには下記のような幾つかの説があるが、いずれにして地理的に近い福建と広東がルーツであり、強く影響を受けている。

  •  広東潮州の影絵師である阿万師が鄭成功の軍隊と共に台南に来たことによって伝わった。
  •  二百年以上前、中国北方から広州を経て、潮州から台湾南部に伝わった。
  • 太平天国年間、海豊、陸豊、潮州方面から福建詔安、漳浦などに伝わり、その後台湾に伝わった。
  • 19世紀後半、福建省南部から高雄、屏東に伝わった。
  • 百年余り前、広東潮州一帯から台湾南部に伝わり、岡山と鳳山で人気を博した。

皮影戲

台湾影絵の特徴

台湾の影絵人形20~30センチ程の大きさが多く、台湾にはロバはいないため、主に牛皮で作られる。人形の頭の多くは側面で、単眼の「五分顔」であり、色は赤、緑、白、黒の4色を使う。台湾皮影戯は別名「皮猿戯」と呼ばれるが、人形の顔が猿に似ているのも特徴の一つだ。

音楽や節回しは、広東の潮調を踏襲している。よく使われる楽器は太鼓、拍子木、銅鑼、椰子胡などで、演奏効果は元の特色を維持している。

台湾の影絵芝居は神様へのお祈りや結婚式などのお祝いの時に、お寺の前や主催者宅の庭などで上演されるのが一般的だ。劇団の人数は一般的に4〜7人で一人が主に影絵芝居を演じ、一人はアシスタントで、残りは演奏や手伝いを担当する。

台湾影絵芝居の演目

台湾影絵芝居の演目の多くは元、明南劇を継承しており、300冊ほどの脚本が現存する。主な演目は歴史伝説と民間伝承に由来する物語で、文劇と武劇の2種類に分けられる。
よく演じられる演目には「西遊記」、「孫臏下山」、「鄭三宝下西洋」、「哪吒鬧海」「高良徳」、「孟日紅」、「師馬都」、「蔡伯喈」、「蘇雲」などがある。

台湾の影絵劇団

高雄市皮影戲館

台湾にある影絵芝居劇団のほとんどは高雄にあり、高雄は有名な皮影戲県となっている。また、高雄県岡山には高雄市皮影戲館あり、影絵芝居の宣伝と普及、研究、展示などを行なっている。

2000年くらいまで、台湾には6つの影絵劇団があったが、合興皮影戲團(安樂皮影戲團)、復興閣皮影戲團、福徳影絵芝居劇団など、多くの劇団が団長が亡くなった後に活動を停止している。ここでは2018年以降に活動歴が確認できる数少ない影絵劇団を紹介する。

東華皮影戲團

「東華影絵芝居劇団」の元々の名称は「三乳壇影絵劇団」で、早期に創立した台湾の有名な影絵劇団である。日本の統治下では第一奉公団であるため、唯一公式公演ができた。その後、張徳成は「三乳壇影絵劇団」を「東華影絵劇団」と改名し、改良や脚本を革新した。一九五二年から一九六七年間、「西遊記」や「済公伝」で台湾各地の劇場で公演し、人気を集め、日本やアメリカでも何度も公演を行った。

関連リンク:東華皮影戲團Facebook

永興楽皮影戲團

台湾影絵の黎明期に創始者の張利によって創立された。文劇「蔡伯喈」と「蘇雲」、武劇「薛仁貴征西」と「薛仁貴征東」を得意とし、創立当時は固定の劇団名を利用していなかったが、1978年に「永興楽影絵芝居劇団」と正式に命名した。典型的な家族影絵劇団で、後継者も比較的多い。 「六国誌」、「五虎平南」、「封神榜」の公演で有名である。

関連リンク:永興楽皮影戲團Facebook

華洲園皮影戲團

1969年に友人と協力して台北で布袋戯団を創立した林振森が、1993年に「華洲園影絵劇団」を設立した。メンバーは林振森夫婦のほか、子供や親戚、友人である。脚本は、教育面の意義や短い民間伝承物語が多いが、より多くの歴史小説及び神話物語などを改編した演目の上演も行なっている。

参考文献

高雄市立歴史博物館, “認識皮影戲”,  高雄市皮影戲館, 2022-2-10
高雄市政府文化局,幻影説戯. 高雄市立歴史博物館, 2015, 196p.
李跃忠. 中国皮影. 山东友谊出版社, 2013